8月に『力水』という相撲取り2人を主人公にした話を書きまして、
いろいろご指摘受けたのですが、なかなか、なかなか
書き直そうとするもうまくいかず。
二人って難しい?
そもそも設定に無理があったからうまくいかない?
うーん。
とりあえず、これが限界?というところで。
書き直しはともかく、2800字が約3800字って増えすぎー。
『力水』
↓
目一杯首を伸ばした扇風機にうなじを吹かれながら、玉緑は食い入るようにテレビを見つめていた。肩には稽古の汗を吸ってずっしり重くなった大判のバスタオルが張り付いている。画面には青い海、白いビーチ。闊歩する女性たち。色鮮やかなティーバックに分断され、たわわに揺れる褐色のヒップが大写しになっていた。玉緑のすぐ後ろでは若い付け人が同じように目を奪われていたが、二人の思いは違っていた。付け人は若い男の一般的な熱いまなざしで見ていたが、玉緑はもっと切実だった。彼はそのヒップの厚みが羨ましくて仕方無かったのである。入門して十七年。玉ヶ関部屋でも古株だ。成績はパッとしないが、長年の経験と勘とを頼りに動いてなんとか十両にとどまっていた。玉緑は尻が薄かった。いくらすり足をしても四股を踏んでも尻は薄いままだった。食も細く、腰が高い上に体も硬い。加えて緊張しやすく、いまだに上位と当たるときは腹具合が怪しくなる有様だった。すぐトイレに行けるようにゆるく締めたまわしは、吊られると危うく落ちそうになることも一度や二度では無かった。
(あんなプリッとした尻だったらまわしが落ちずにひっかかるだろうに…)
自分のまわしと似た鮮やかな緑色のティ-バックに縁取られた丸みを見ながら大きな溜息を一つつくと昼寝のために横になった。
喜多川部屋の稲光は紫紺の大座布団に腕組みして座っていた。鏡越しに見える部屋付の床山さんの額に大粒の汗が噴き出している。櫛を持つ手には血管が浮き出し、もみ上げを汗が伝っている。その緊張っぷりを申し訳ない気持ちで眺めながら以前見た横綱インタビューを思い出していた。横綱担当の床山は髷をむんずと掴み、横綱の目が吊り上るほど引っ張っていた。ところが、この床山さんと来たらどうだ。まるで口から黒い液を吐いてすぐ死んでしまうバッタを扱うように髷をつまんでいる。そう、つまんでいた。髷は鉛筆くらいの細さしかなかった。鉛筆くらい、というのはかなりサービスした表現で、相撲中継の少し引いた映像だと頭上には何も映らない程か細いものになっていた。床山さんの緊張も当然だった。一本たりとも失うわけにはいかない。
「元結はゆるめでお願いします」
「は、はいっ」
お願いしなくたってゆるくはなるのだ。元結の左端と髷を合わせて左手で握り、髷を結い、元結を切る。その過程で元結の右端を口に咥えてきゅっと引っ張るのだが、稲光相手にそれはできない。大銀杏を結える立場なのに実際は道端のカタバミにも及ばなかった。ましてや夏は抜け毛の季節である。
稲光は先場所後、親方に釘を刺された。
「力水をつけてもらうとき、相手の髷を睨むんじゃない」
知らず知らずのうち、立派な大銀杏を見ると睨んでいたらしい。
(どんなに稽古を積んだって、体が動いたって、髷が結えなくなったらおしまいだもの…)
稽古熱心で怪我も少ない稲光は来年で入門から二十年になろうとしていたが、まさか体力の限界ではなく毛髪の限界を心配する日が来ようとは考えてもいなかった。
体の硬い玉緑だが、その特徴から「逆さナマコ」というあだ名がついていた。ナマコは触れると硬くなるが、玉緑は相手がぐっと力を入れた瞬間ぐにゃん、と脱力してしまうのだった。意識的にやっているわけではなく、そうなってしまうのだ。関節が硬く、腰が伸びてしまうため突っ張られる相撲には弱かったが、組相撲ではこの妙な特徴で星を稼いだ。初顔合わせの相手はまず、これにやられる。
稲光は入門当初からとにかく稽古熱心だった。特に四股や摺り足といった基本稽古を怠らなかった。元々重心の低い稲光は稽古によって岩のように重い下半身を手に入れた。その粘り腰は多くの力士を悩ませたが三十歳を過ぎた頃、陰りが見えた。すると、それを稽古量でカバーしようと更に稽古に励み、それによって培われた筋肉と気迫とで衰えを補っていたのだった。その肩には毎日柱にぶつかり稽古をした結果、つややかな饅頭のようなコブができ、「調合金戦車」という仇名で年若い力士から影で呼ばれていた。
玉緑も稲光も夏は苦手だった。暑さはそれぞれの胃と毛根を痛めつけた。つらい夏巡業が終わり、両国での秋場所を迎えた。番付の文字が細れば関取の気持ちも細る。中日を過ぎて二人とも五分の星だった。互いに今日勝てば勝ち越し、という成績で迎えた千秋楽に二人は対戦することになった。
玉緑は西十両十四枚目、稲光は東十両十枚目と後が無かった。稲光は名古屋場所ではひとつ勝ち越したが、今回負け越せば十両陥落が色濃くなる。
(今場所では是が非でも勝ち越さなければ)
取組み表を見ながら二人は思った。
玉緑は自分に活を入れるために腹を叩こうとしてやめた。
花道奥で出番を待つ。満員には少し足りない客席も下位の取組みでは応援に身が入らないのだろう。無数のお喋りが場内をうねっていた。
直前の取組み、東の力士が勝った。力水をつけてもらうとき稲光は親方の注意を思い出したが、備長炭のように黒光りする年若い関取の髷につい目が行ってしまった。
口に含んだ水は冷たかった。上位の取組みまでぬるくならないように水桶には氷が入れられている。下位のものほど冷たい水を含むことになるのだ。
(ちっともしょっぱくないな…)
取組みが進むほど清めの塩が少しずつ水に入り、次第に水は塩気を帯びる。しょっぱい力水は強い者だけが知る水の味だった。
(この水はまだ、力水になっちゃいない)
力紙で口元を隠し静かに水を吐いた。千秋楽、角の丸くなったのぼり口から土俵に上がる。
「イナピカリー!」
子供の声だろうか。甲高い声に場内に笑いが起こる。稲光の頭髪が少ないことを揶揄した声援だったが、それでさえ嬉しかった。乾いたざわめきを背に一歩一歩踏みしめるように土俵に上がった。
西溜まりでは玉緑が力水をほんの少しだけ柄杓に掬っていた。冷たい水は腹に堪えるからだ。しるし程度の水を口に含み、すぐに吐き出す。柄杓を戻しながら西の桟敷席に目をやった。母親と女房が見に来ていた。結婚は十両になってからが暗黙のルールの相撲界にあって、歴代一のスロー出世だった玉緑は散々彼女を待たせた。故郷の鹿児島で母親は小さい理容室を切り盛りしていた。二人はからくりのおもちゃみたいに升席係にぺこぺこ頭を下げている。何か申し訳ないような気持ちがふっと湧いたが、かむりを振って弱気を打ち消した。勝ちたい。二人の前で勝ちたい。小さく頷くと、平手で腰をパン、と叩いて土俵に駆け上がった。
二人が見合っても、観客の注目はまだ集まっていなかった。ほぼ同時に清めの塩を撒く。稲光は仕切り線の際に腰を落とし、玉緑は仕切り線からかなり下がった位置を取った。
「はっけよーい、のこった!」
ごつ、という鈍い音がした。行司の掛け声とともに軍配が翻る。まわしと共色の下がりが土俵をざっと撫でた。玉緑は勢いよくぶつかったが僅かに中心から当たりが外れた。低く構えていた稲光はその勢いを逆に利用してはたき込みを狙った。前につんのめりながら玉緑もなんとか踏みとどまったが、腰が伸びたその懐に稲光がすかさず入り両まわしを取った。玉緑の下がりがバサリと落ちる。まわしの緩みに稲光は全ての指を下から差した。左右を吊られ、玉緑の背中でまわしはV字になる。伸びきった前まわしが今にも外れそうだった。
(不浄負けだけはカンベンっ)
自分より小さな稲光に吊られコンパスのように突っ張った足を玉緑は必死に伸ばし、つま先を俵にひっかけた。正に土俵際の様相を呈している緊迫した取組みに会場からも拍手が沸き起こった。その直後、稲光がうっちゃりを仕掛け、拍手は歓声に変わった。組み合わさったまま二人が土俵下に落ちたのだ。落ちた二人はお互いどちらが勝ったのか分からなかった。
まず玉緑が土俵に戻り、続いて稲光が土俵に戻ると歓声はひきつるような短い悲鳴に変わった。客席からは稲光の足がわずかに早く土俵を割ったように見えた。行司軍配は左、玉緑に上がったが審判から物言いがついた。観客の視線は紋付羽織の親方衆と稲光の頭上に交互に注がれた。
落ちる瞬間、稲光は頭上でピリピリと布を裂くような音を聞いたがそれが何なのかは分からなかった。内容と勢いでは自分が勝っていた自負はある。呼吸と肩が同じリズムで上下し続けた。
審判がマイクを握ると場内は静まり返った。
「行司軍配は左、玉緑に上がりましたが、稲光の髷を玉緑が掴んだ反則行為がありました。よって、行司差し違え。東、稲光の勝ちといたします」
割れんばかりの歓声が起こった。これで来場所も十両で相撲が取れる、上気した頬に喜びが加わり頭皮も顔も同じ桃色になった。蹲踞して行事の勝ち名乗りを受け、嬉しさを噛み締めながら立ち上がる。土俵を降りるとき、頭上になにやらぷらぷらするものを感じた。次の取組み力士は力水を渡す稲光の顔を全く見ようとしなかった。大きな氷の入った水桶に静かに柄杓を戻すと、長い土俵人生で初めてというくらいの拍手に送られながら花道を下がった。負けた玉緑は下がりを掴むふりで前まわしを整えると膝をくっつけた妙な歩き方で花道を下がった。
二人はその場所を最後に引退した。稲光は年寄稲葉を襲名。玉緑は故郷に戻り実家の理髪店を継いだ。